本日は4階にてお取り扱いの【H.Moser&Cie. (Hモーザー)】についてご紹介いたします。
未だHモーザーというブランドをご存知ない方も多いのではないでしょうか。
実は、Hモーザーの創業はロシア。
ハインリッヒ・モーザーによって1828年に創立されました。
何故?ロシア?…と思いますよね。
それには、ハインリッヒの歩んできた道のりが関係しています。
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ハインリッヒ・モーザーは1805年、スイスシャフハウゼンの伝統的な時計師一家に生まれました。
幼い頃から祖先と同じように時計師の道を目指し、19歳ころまで父親から時計づくりを学んだ後、
地元を離れ、ルロックルに自身の工房をつくります。
彼の作った時計はスイス国外からの評価も高く、
ロシア・ロマノフ王朝の皇帝へ献上される置き時計の製造を一任されるなど、若いうちから高い評価を得ていました。
ちなみに…彼は成功をおさめたのち地元シャフハウゼンに戻ろうとしたそうですが、
シャフハウゼンの時計師協会はこれを拒否したそう。(!)
(当時の職人たちの閉鎖的な環境もあり、外部で成功した若者を受け入れることをしなかったようです…)
※所説あり
何はともあれ、ハインリッヒはかつて自分の時計を高く評価してくれたロシアへ向かうことにしました。
当時のロシアは帝政下で幅広い時計市場を持っていたこともあり、
幾つかの時計店で経験を積んだ後、ロシア サンクトペテルブルクに行き、
1828年自身の会社を創業しました。(Hモーザーの誕生です)
複雑機構や様々な装飾を施した時計で成功したのは勿論のこと、彼はビジネスマンとして優れたセンスも持っており、
販売網を広げ、卸売りとマニュファクチュールを同時に行うことにも成功します。
ロシアで再び成功したハインリッヒはさらに販路を広げるために、1829年再びスイスルロックルに戻り、工房をつくります。
こうして、Hモーザーの時計はロシアとスイスの2大拠点からヨーロッパ、アメリカ、アジアへと販路を広げ、
ロシアの軍用時計も任されるようになりました。
ルロックルの工房は多くの雇用を生み出し、人材育成にもつながり、地域の発展へ大きく貢献します。
その功績によってハインリッヒはルロックル名誉市民の名誉を得ることとになったのです!
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そんな成功をおさめたハインリッヒは1848年地元シャフハウゼンに帰還します。
シャフハウゼンは当時のスイスで最も貧しい場所といわれており、
産業の発展に取り残されている故郷をみた彼は、次に地元の発展に動き出すのです。
まず手始めに、ライン川の水の勢いを利用した水力発電を考えます。
ライン川に運河つくったり、スイス最大のダムを建設したりと、電気を安く提供できるようにしました。
街はもちろん、近くの工場にも電気を供給し、シャフハウゼンからチューリッヒ地方への開拓を推し進めました。
さらに鉄道会社をつくり、低価格での電力供給に惹かれた海外企業を誘致し、受け入れるようになりました。
実はその誘致した企業の中に時計ブランドIWCがありました。
ハインリッヒのこうした働きはアメリカ人、F.A.ジョーンズがシャフハウゼンにIWCを創業する際、大きな支えとなったそうです。
実際、F.A.ジョーンズはアメリカ流の合理的な生産システムをスイスで確立しようと計画したそうですが、
保守的なスイスの事業家からはこれを拒否されてしまいます。
そこに手をさしのべたのがハインリッヒ・モーザーでした。
モーザーから借りた建物に工房を開いたF.A.ジョーンズは「インターナショナル・ウォッチ・カンパニー(IWC)」を設立。
やがてIWCは、シャフハウゼンを代表する企業へと成長していきました。
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その後、1874年創業者ハインリッヒ・モーザーは亡くなります。
事業は後継者に引き継がれましたが、1917年ロシア革命が起こったことにより財産は没収。
ロシアでの事業も撤退となってしまいました。
スイスでの時計事業はしばらく継続していましたが、
1970年代のクオーツショックにより、ブランドは休眠となってしまいました…
こうして歴史の中に埋もれてしまったHモーザー…
一体どうやって復活をしたのでしょうか…
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本日はここまで!
最後までお読みいただきありがとうございました☆彡
ISHIDA新宿/荻原
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